ギリシア世界3 民主政への歩み

  スパルタが一生懸命筋肉を鍛えていた頃、もうひとつの有力なポリスのアテネでは、貴族と平民の階級闘争が激化していました。
  思い出してください、ギリシアでは、戦うための武具は、自前で調達しなければなりませんでしたよね。武器やよろいはとても高価なものだから、お金持ちの貴族しか買えませんでした。命を懸けてポリスを守るものだけが政治参加できる、それがポリスの掟でした。だから政治は貴族が独占
  でも、人間が増えてきて、どんどん植民市をつくります。すると、植民市同士で活発に交易を行うようになり、経済が活発化します。商工業が発展し、それまで高価だったものが、比較的安く手に入るようになります。そう、高価だった武具も、ちょっとお金を持ってる平民なら買えるようになったのです。
  彼らは重い鎧と大きな丸い盾、長い槍を装備し、重装歩兵となって戦場に赴きます。そしていつしか、彼らの組んだ重装歩兵密集隊形(ファランクス)が、軍の主力となっていったのです。

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  「俺たちも命を懸けてるんだから、参政権をよこせ」と、平民たちは貴族に要求します。こうして徐々に、貴族と平民の間にあった壁が取り払われていくのです。


① 前7世紀、ドラコンが、それまでの慣習法を成文化しました。慣習法とは「はっきりと文章になっていなくても、今までそれでやってきたんだから、ちゃんと守ろうね」なんて感じのものです。
  難しくいうと、「社会通念的に成立する法」です。でもこれだと、例えば鶏を盗んだときに、どんな刑罰が与えられるのか、その場その場で変わってしまう可能性があります。裁判官も貴族がやっていたので、貴族の犯罪は甘くして、同じ犯罪でも、平民には厳しくするなんてことがまかり通ってしまいます。だから、法律をちゃんと文章にしたのです。そうすれば、鶏泥棒にはこういう罪が与えられると、はっきり明言できるし、貴族だからって、それを免れることはできなくなります。

② 続いて前594年、ソロンが改革を行います。彼の改革は2点。
  ひとつは債務奴隷の禁止です。当時は、借金を抱えてしまった平民が、その金を返せなくなったとき、体で返済する、要するに奴隷になることがありました。これを債務奴隷といいます。そして奴隷としてがんばって、晴れて解放されると、また市民に戻ります。でも再び借金をして返せなくなり、また奴隷になる。
  奴隷になったり市民に戻ったりを繰り返す人も出てきます。でもこんなことを認めていると、誰が奴隷で誰が市民だか、だんだん区別がつかなくなってしまうでしょう。ポリスの秩序がめちゃくちゃになってしまうのです。だから、債務奴隷の禁止です。
  それから、借金を抱えて困っている平民の借金を、全部チャラにしてあげました。いわゆる徳政令です。
  お金持ちはみんなブーブーですが、これをなだめるためなのか、もうひとつの改革を行います。これが財産政治
  市民を貴族と平民という区別でなく、財産を持っている量によって、4等級に区分するというものです。これならお金持ちの平民は満足できるでしょう。でも、下のほうの平民は不満ばかりです。

③ 前561年、ペイシストラトス僭主になります。僭主とは、非合法な手段、もっぱら暴力を使って独裁者になった人のことです。

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  彼の場合は、ある日自分で自分の体に傷をつけ、暴漢に襲われたから、ボディーガードを雇いたいと市民に訴えます。痛々しそうなペイシストラトスを見た市民たちは、同情して彼の要求を認めてあげました。
  ある日ペイシストラトスは、大事な話があるからといって、みんなに武器を携帯してアゴラに集まるよう呼びかけました。みんながアゴラに集まってくると、大量のボディーガードが周囲を囲んでいます。そして、命が惜しければ武器を渡せと市民に迫ります。
  市民はみんな武器を没収されてしまいました。こうして、誰もペイシストラトスに逆らえなくなりました。そして彼は僭主になったのです。
  こんな強引な手法を使ったペイシストラトスですが、彼の行った政策は、下の階級に追いやられた中小農民の保護・育成でした。
  加えてアテネの美化や文化事業の推進にも力を入れます。そう、ペイシストラトス、実はいいやつだったんです。
  でも、彼のあとを継いだヒッピアスとヒッパルコスという二人の息子がダメで、一人の女性をめぐって殺し合いをしてしまいます。生き残ったヒッピアスは暴君となり、以後アテネの政治は混乱してしまいました。

④ 前508年、クレイステネスが改革を行います。一つ目は、陶片追放(オストラシズム)という制度の設置。再び僭主が現れないように、僭主になりそうな人物をアテネから追放するというものです。
  そんな人物・・・要するに、とても実力のある政治家や軍人・・・の名前を陶器の破片に書き、投票します。6000票以上集めてしまった人の中から、一番多かった人を選び、10年間アテネから追放するというシステムです。
  どんなに実力があって、統率力がある優れた人物でも、アテネ市民6000人以上にねたまれてしまったら追放です。
  それだけのリスクを覚悟しながら、それでもみんなで話し合う民主政にこだわったところが、アテネの最も大きな特徴ではないでしょうか。
  でも実際には、このシステムが権力争いにも使われてしまいます。
  有力な政治家や軍人が次々と追放されることになり、気がついたらアテネには市民をしっかり導く能力のある人物がいなくなってしまいました。
  これがアテネの没落を招く大きな原因になるのです。

下の写真は、実際に投票された陶片。「テミストクレス」と書いてあります。(Wikipediaより)
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  テミストクレスは、後に紹介するペルシア戦争で大活躍した人物です。でもオストラシズムによって、アテネを追放されしまいました。

  もうひとつは、十部族制というもの。ソロンが実施したような、財産で人を分けるのではなく、住んでいる場所で10の部族に分けるというものです。これなら貴族も平民も、貧乏人も金持ちもなくなりますね。
  各地域は、デーモスと呼ばれる区域に分けられました。この「デーモス」が、後に民主制を意味する「デモクラシー」になります。
  そして各部族から50人ずつ代表を出し、500人評議会が結成されました。これが日常の行政を担当します。これで、より多くの平民たちが、市民としての自覚を深め、積極的に政治に参加していくようになりました。

⑤ 前480年、ペルシア戦争が始まります。詳しくは次回やります。
  アテネが大活躍したサラミスの海戦では、船のこぎ手として、大量の無産市民(財産のない市民)が動員されたので、武具を買えない市民も戦争に参加できました。これ以降、アテネの主力が海軍になったので、彼らも政治に参加できるようになったのです。
  もはや、市民であるならだれでも政治に参加できるシステムが出来上がりました。

⑥ 前443年以降、ペリクレスの指導でアテネの民主化は完成します。まずは、アテネ市民全員が参加する民会(エクレシア)で、国の政策を決定します。全部多数決です。
  それからなんと、将軍職を除くすべての役職が全市民からくじ引きで選ばれるのです。そして選ばれた市民には、仕事に専念できるようにと、ポリスから給料も支払われます。くじ引きなんだから、もう誰が選ばれるかわからない。まさに平等を絵に描いたような制度です。


  このようにして、アテネでは民主化が進んだのですが、これはあくまでアテネ市民の間だけの話です。貴族も平民も、どちらも自由な市民に変わりはありません。その下には、“物言う動物”の奴隷が大量にいるのです。
  加えて、女性はまったく蚊帳の外。完全に男だけの世界でした。だから、僕らが知っている民主政治とは相当かけ離れたものなのだと理解してください。

以上、民主政への歩みでした。

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